少しハニカム構造体

ふみのつれづれ

ぬるいそば

私が東京に出てきていちばん最初に「ああ、都会だなあ」と実感した場所は、実は方南町だった。方南町というのは丸ノ内線中野坂上駅から分かれて、たった3つばかりの駅がある丸ノ内支線のその終点、いわゆる盲腸線というのか、その突端、方南通りと環七の交差点のあたりにある駅だ。当時山手線の中、内側に住んでいて思いっきり大都会な風景を毎日見ていたはずなのに、今にしてみればなんだか不思議な話だが、終点なので線路はホームで途切れ、ただ古めかしい出口が無造作に2つばかり、外に出ればなんだか間延びした都会の風景に環七と方南通りのアンダーパス、そういうところに都市を主張しない余裕みたいなものを見て取ったのではなかったかと思う。

その時私は何をしに都心から方南町なんぞへ来たかというと、普門館吹奏楽の全国大会を聴くためだった。方南町からちょっと歩くと今でもそうだがRとかキリスト教系のSとか、宗教都市のような光景がある。とくにRの施設が立ち並ぶ一帯はちょっと壮観ですらある。

その方南町駅の一方の出口を上がったところに小さい立ち食いそば屋があった。4人も入ると身動きできないような店内についぞ足を踏み入れたことはなかったが、そこを通るたび貼り出されたメニューの中の「ぬるいそば」というのが気になって気になって仕方なかった。ぬるいそばというのは、果たして需要があるものなんだろうか。しかも、熱い、とか、冷たい、とは違って、ぬるくするというのには、味より前に温度だけで作り手の絶妙さが要求されそうで、それだけで難易度がかなり高そうだ。いつだったかある友人にこのぬるいそばの需要を聞いてみたところ、そもそも駅近くの立ち食いそばを食べていく人というのは急いでいるのであり、ぬるいそばには熱い(あったかい)そばと違って冷ましながら食べなくて済むメリットがあるではないか、と言っていたが、私はその意見にあまり説得力を感じなかった。

ぬるいそばはおろかここのそばを全く食べたことはなかったが、この店はよく天ぷらを持ち帰り用としてパック詰めして売っていて、非常に安価だったこともあってよく買って家で食べた。道路側、店の外からすみませんと声をかけるとサッシの引き戸をあけて応対してくれたお姉さんが優しかったのを今でも思い出す。

過去形で書いているわけは、その立ち食いそば屋があった場所がいつの間にか更地になっていたからだ。ぬるいそばの貼り紙とともに私の記憶のなかに長く残るであろう。なんだか偉そうに書いているが、食べたことのない、ぬるいそば。