少しハニカム構造体

ふみのつれづれ

スケジュール帳と、ジャンヌ・ダルクあるいはドン・キホーテ

来年のスケジュール帳を買う。色柄ともに今年とまるきり同じ、つまりメーカーと品番が同じもの。地味で、それでいてちょっとオンナっぽいかもしれないカバーの色。

今まで毎年毎年いろんなデザイン、ときにはキャラクターものだったりときにはカバーが別売で中身だけ差し替えるタイプだったり、ときにはバインダータイプだったり、毎年毎年あれこれ買って、毎年毎年途中で飽きてきっちり使い切ることはなかったから、今年スケジュール帳を一冊きっちり使い続けてそれでなおかつ来年も同じものを買ったのは、単にスケジュール帳選びが落ち着いたというだけじゃなくて、結局わたし自身がこの年齢にして落ち着いちゃったということなんじゃないかと思う。それがやっとなのか、とうとうなのか、それはよくわからない。

社会で女性に紛れて生きていく、ちょっと風変わりな、でもどこかでたまーに見かけるかもしれないと言えばそうであるといった程度の変わった女性、として生きていく。

今の仕事をしているおかげでなんとなくわかったことのひとつ。いわゆるGIDトランスジェンダーと言ってもいいのかもしれないが文脈的にやはりGIDということだと思う)、とりもなおさずGID、その中でもMtFのパス問題についての、私なりの現時点での見解。もし狭義のパスと広義のパスという2つの定義があるとしたら、たぶん広義のパスであり、たぶんパスということの真実。そして私が女性として社会適応できているらしいその説明。私の生き方、なおかつ弁明。

今から15年ほど前、インターネットで探し当て、初めて私と同じようなGID当事者(今はこんな言い方をしないのかもしれないが)と知り合い初めて会ったとき、その人はまるでジャンヌダルクのように見えた。プライドと悲壮感のような何か、そしていつも何かと戦っているドン・キホーテでもあった彼女。その彼女から見たら今の私はどう見えるのだろう。

どう見えようが私は私なんだと、今ならやっと言える気がするし、そう言えるようになったのは、スケジュール帳が示す時間の流れ、経過ということだ。良くも悪くも。