少しハニカム構造体

ふみのつれづれ

ストレートネック3

私が通っていた今はもうない幼稚園。毎日私の実家のお向かいに住む一歳上の子と一緒に通っていた。小学校の校庭を斜めに突っ切り、そのすぐ先。大人になってその幼稚園を眺めていて園庭の狭さに愕然とした。よくもあんな狭い庭で運動会なんてやれたもんだなあ、と。

今年のお盆の夜、松明かし(前記事参照)をする。松になかなか火が点かなくて、あーあ、ハズレを買っちゃったなあ、と、お盆用品の買い出しにクルマを出してくれた従妹の顔を思い出す。好意でクルマを出してくれてしかも買い物にも付き合ってもらったのだし、お店を選んだのも私だし、別に従妹には何の落ち度もないのだが、買い出しが終わったあとで、私の買い物の順番がおかしいせいで手間取ったなどとぐちぐち言い出したことに、ちょっとカツンときていたから。

私が松明かし用の松を買ったショッピングセンターには松は一種類しかなかったけれど、お店によってはお高いのとお安いのと2種類置いていたりする。おととし父が亡くなったのは8月13日だったが、もうすぐ退院できると聞かされて、私は、せっかくお盆の時期に郷里に帰ってきたのだし、お盆をやろう、と準備を始めた。叔母には買い出しを手伝ってもらい、母方の叔父からはお盆のお供え物だのの他に、これは値段の高い松で火がよく点くから種火にするといい、と、一袋貰ったりもした。まあ、余談だがそんな具合い。

話は戻るが、なかなか火を点けられずにいると、街灯もない道路をへだてた暗がり、お向かいからお兄さん(前記事参照)がやってくる。お向かいさんは松明かしがもう終わりかけていて、火をくれると言う。と、次の瞬間、もうひとりやって来るのに気づく。私はてっきりお兄さんの友だちか何かだろうと思っていると、その弟、実家を出て家庭を持っている私の幼なじみ、幼稚園に一緒に通っていた子だった。一緒に遊ばなくなってから40年ぶり。ざっくり言うと。

私もいい年ならばもちろんひとつ上のその幼なじみも私に輪をかけていい年。なのに顔を見ただけでそれが誰だかわかる。シチュエーションじゃなく、たぶんわかる。不思議なものだ。私もそうなんだろうか。

前年つまり去年のお盆、おばさんの名代でうちにお線香をあげにやって来たハトコに幼稚園の頃以来で会った時もそうだった。口に出せば他に言葉が見つからないのでなつかしいだが、なつかしいというよりただただ不思議。このわかるという感覚は、顔の造作が変わらないというよりむしろ何がしかの記憶のインプットのされ方、距離感みたいなものなのかもしれない。

お兄さんから、いま兄弟で飲んでいるんだがうちに来ないか、と言われ、松明かしを終えて来客用に買っておいた缶ビールを冷蔵庫から取り出し携えてゆく。小学生の頃以来でお向かいさんの家に入る。兄弟で見ていたらしいテレビのあっけなく終わったらしいボクシングのリプレイが終わると、当然のこととして昔話になる。しかもやっぱりギターの話。

しかし、幼なじみとこの幼なじみの家でギターを弾いて遊んでいたのは思い出すのだが、それと一緒に思い出すのは当時ラジオで当時流行っていた、欽ちゃんの素人投稿番組。幼なじみがラジカセで録音したのを聞いてはゲラゲラ笑っていたっけ。あれ、もしかすると私が思うほどにはギターなんて弾いていなかったのかもしれない。いつも二人で真剣に練習していた気がするのだが。

となりの仏間に仏壇とは別に盆棚がこしらえてある。せっかくなのでお線香あげさせていただいていいですか、と私は言った。幼なじみのお母さんは10年以上前に亡くなっていて、亡くなったことはずっと前母から聞かされて知ってはいたがそれきりだった。お兄さんと幼なじみは、えっ、というように一瞬顔を見合わせて、もしや私はたとえばお盆に突然にこんなことをすべきではないとか、何か非常識なことを口走ってしまったのか、と緊張する。だがどうやらそうではないらしく、幼なじみが盆棚のローソクに火を点けながら、母さん、○○ちゃん(私の昔のニックネーム)が来てくれたよ、と言い、兄弟して私にありがとう、ありがとうと何度も言った。遺影の中の兄弟のお母さんは私が知っているよりずっとずっと若い頃のものらしく、まるで別人だった。私がまだ30代くらいの頃、うちの母に、持っていたいから写真を送ってくれと言ったら、結婚前に写真館で撮ったらしい父と母それぞれの写真を送ってよこして苦笑したのを思い出した。

幼なじみとそのお兄さんと飲みながら、話は当然のように体の不調の話になる。私が医者からストレートネックだと言われた話をしたら、幼なじみは、ああアレね、と笑っていた。

ストレートネック2

前回の話の続き。というか後日談のような話。

今年のお盆の夜はフシギとなつかしい人に立て続けに会う。

ちょっと説明しておくと、私の郷里ではお盆の間、毎夜松明かし(まつあかし)といって松を短く裂いたものを燃やし火を焚く。13日には迎え火、14日15日も火を焚き、16日は送り火。ちなみに7日は七日盆(なのかぼん)、20日は二十日盆(はつかぼん)、たしか1日は朔日盆31日は晦日盆といってこれまたたしか火を焚く。さらに、これは父が亡くなって初めて知ったことだが、初盆の迎え火には松明かしの他に48本のローソクを立て(同本数のお線香で代用可)数を増やして3年目まで続ける。

つまり、そういうわけでお盆の迎え火の夜というのは、その家の松明かしの様子を見ると、少なくともこの3年以内に誰か亡くなったらしいということがわかる仕組みになっている。

今年のお盆は気温が低く雨がしとしとと降り続くようなお天気だったが、そんな雨の降る迎え火の夜、実家の前で松明かしと、前年に叔母と砂浜から取ってきた砂を実家の物置から見つけたたぶん酢だこが入っていた容器に入れたものに88本のお線香を立てた。いや、実を言えば立てたのは15本ほど。88本のお線香すべてに一気に松明かしの炎から火をつけたら燃え上がってしまったのだ。炎を消そうとしたがどうにもならず燃える松の中に捨ててしまう。かろうじて立てることができたのが15本。まあ、この風習については私は初心者みたいなものだし、努力をしたことで許してもらおう、と。

松明かしの炎とやっと立てた15本のお線香をしゃがんでぼんやり眺めていると、傘をさしたロマンスグレーの紳士が現れる。誰か亡くなったのか、と聞くその顔を見ると、見覚えがある。子どもの頃よく見たことのある近所の方だった。

だが。記憶によれば私の小学生当時すでにこの方はこのぐらいの年齢ではなかったか。少し混乱しながら世間話をする。亡くなったのは父で、私は現在は東京に住んでいてお盆のために帰ってきたのだ、と話すと、この界隈で同じ年齢の友だちは誰がいるのか、天気が良かったらクルマでドライブに連れて行ってあげるのに残念だ、と優しい笑みを浮かべて、去っていく。

あとで前回の話に登場したお向かいのお兄さんに聞いたところによると、その方は私が通っていた小学校でまさにその当時教員をなさっていたのだそうで、お兄さんの弟、つまり私の幼なじみのクラスの担任だったらしい。私が小学生の頃すでにおじいちゃんだったじゃん、お年はいくつなんだろう、と話すと、お兄さんは、幽霊だと思ったか、と笑う。

まさか。幽霊だなんて思わなかったけどさ。

話はつづく。

ストレートネック

医者に行って時々やってくる頭痛を訴えると、すぐさま首のレントゲンを撮ろうということになる。撮った結果を医者の机の上のモニター画面で見ると加齢からくるストレートネックが原因らしいということになる。そんなコトバ初めて聞いた。ネックが曲がっていないのは良いことなんじゃないのか、と、ギターを弾く私はすぐ思っちゃうのだが、この医者が言うにはニンゲンの首はそうではなくギターで言うところのいわゆる順反りでなくてはいけないらしい。難しいもんだ。

去年のお盆の夜、実家のお向かいのお兄さんと私の実家でギターを弾いて遊ぶ。街灯もまばらで車もほとんど通らない外の暗がりでしばらく立ち話をして、彼も今でもギターを弾いていることを知りなんだか嬉しくなって、勇気を出して誘ってみたのだ。ちょうど来客用に買ったはいいが余りそうな缶ビールが冷蔵庫にあったし、何より実家で弾くために私もギターを置いてあったから。

お向かいのお兄さんというのは、一緒に幼稚園に通った幼なじみの子の、そのお兄さんのこと。私がお向かいさんつまり幼なじみのところへ遊びに行っていたのはたしか小6ぐらいまでで、幼なじみは私の1つ上、お兄さんは私より6歳か7歳上じゃないかと思う。その年頃の6歳7歳違いというのはかたや子供かたや大人の世界の住人、関心にほとんど接点などないはずなのだが、私が幼なじみの家に遊びに行っていた最後の1年くらいの間、何故か3人にはギターという共通の趣味、関心事があった。

ただもちろん子供と大人なので、(もっとずっと小さかった頃はともかく)当時私がそのお兄さんにギターで遊んでもらった、というか教えてもらった記憶は一度か二度しかなくて、だから余計に印象が強いのかもしれない。当時私はあの初心者の前に最初に立ちはだかる大きな壁、Fというかセーハというヤツがまだできなくて、AmとかCとかしか押さえられなかったし、幼なじみの子も私よりちょっとだけ上手という程度で、だからそんな私にとってこのお兄さんはものすごく上手に見えた。というか、見えたはずだ。よくは覚えていないけど。

うちに来ないかと話して私が家に戻って少しして、お兄さんは裸のギターをそのまま抱え、それに鉢巻と腹巻きを付けていたらバカボンのパパというようないでたちでやってきて(なにしろお向かいだから)、私が差し出した缶ビールを飲みながら他愛のない昔話をする。その後の私の音楽遍歴を話すと、へえ俺がギターを教えたことなんてあったっけ、じゃあ俺が○○ちゃん(当時の私のニックネーム)の師匠ってわけだなあ、とちょっと悦に入ったような表情をしながら、このギター伴奏はかなり難しいのだという前置きとともに吉田拓郎のナントカという曲を弾き始める。

夜も遅いというのに私の家で声を上げて弾き語りを始めたお兄さんを眺めながら、いくら向かいだからってふつうこんな服装で来るかなあ、ああ早く帰ってくれないかなあ、などと(呼んでおきながら)勝手なことを考えていた。お兄さんが帰ったあと部屋になんだか男臭い臭いがしばらく残っていて、とっても嫌だった。

家を建てたい

さいきん、家を建てたい、と猛烈に思うようになった。実家の土地に自分の家を建てる。今の実家は、住むのにはちょっと不便なのだ。終の棲家が欲しいとはさらさら思わないが、まあ、基地がもうひとつあってもいいかなあ、あった方がいいなあ、と。私の財産は本だけなので、本をしっかり収納できる家。CDは言うほど持っていないし、楽器もと言いたいところだが、財産と呼べるほど愛着ある楽器を持っているわけでもないので。

それでなくとも仏壇があるので、私には、少なくとも仏壇を何らかの形で管理しないといけないという重大なミッションが課せられているわけだ。デジタルなご時世、仏壇なんてバーチャルでいいとも思わなくもないが、民俗学が好きな私がそれを許さない。物理的な仏壇があって郷里の風習にいくらかなりとも則って、お盆なりといった年中行事を恙なく遂行したい。

お盆に郷里に帰って、叔母と、うちの家と土地について話をする。叔母もいい年なのでこれからのことがいろいろ気になるらしい。自分のこと、自分の家のこと、連れ合いのこと、2人の娘のこと。鬼籍に入るということについては年齢の順を想定してばかり話をするので(つまり、叔母の頭の中では私の母が最初ということらしい)、誰が先に死ぬかなんてわからないじゃないですか、と私は言う。

姓名判断だったか手相だったか、ずっとずっと前に見て貰ったことがあって、それによると私は肉親の縁は薄いがそれでも晩年は孤独にはならずたくさんの人に囲まれた生活を送ることになる、という話を私は何故か信じきっていて、人が集まれる家がいいなあ、とちょっと思う。

お休みだった今日、病院に行って血圧の薬を貰ってくる。血圧を測ってみるといくぶん高いらしい。病院から戻ってきて喫茶店にいると、郷里の保険の外交員さんから実家の火災保険の更新についての電話がかかってくる。今度郷里に帰ったら手続きしないと。だが私の頭の中はそんなことより、郷里から東京に戻ってくる日が日曜日なので生ゴミをどう処分してくるかが気がかりなのであった。

クリオネ、もしくは天秤を持たない人

今回も今回でなかなか手ごわい相手だった。前評判は最強、始まってみるとクネクネとしてつかみどころがない。はてあの前評判はなんだったのか、コイツはバテているのかと思わせておいて終盤になって非常に強烈なパンチを繰り出してきて、私は危うくリングに沈むところだったが、15ラウンド戦いきって採点で勝った。っていうのがこの夏の東京の暑さについての私の感想である。

というわけで9月。仕事に関して夏の間の私の最大の使命は、職場の障害者さんの体調に気を配ることだったので、なんとか乗り切れたかなあという感じ。かなあ、というのは、仕事が元で体調を崩すことはなかったが、配慮というか私の職務としてこれで良かったのかどうかはよくわからないから。何故なら過保護であってもいけないわけで。

年に何度か本社で就労支援の現場担当者による会議があり、春には、私が手をかけ過ぎであるとして突き上げを喰らう。本当にそう思われているのか、はたまた試されているのか、よくわからない。よくわからないまま、モヤモヤをずっと抱えて、秋の会議では小さな抵抗を試みようと思っている私。ま、こんなことでストレスを抱えるほど私はヤワではいが、会議の席で即座にかつカッコよく反撃できるほど口が達者ではないのは、私が反芻動物でしかもオツムが弱いからだから仕方ない。ああ、颯爽と会議を乗り切れる知的瞬発力が欲しい。

会社の設定した研修だけでは機会が少な過ぎて埒が開かないので、自発的に社外研修を探して参加してみる。ユングは好きで齧ってもみたがスキナーなにそれ新しいデバイスかしらな人なので、今から行動科学を勉強しても仕事に応用できるほど身になるには時間がかかりそう。

日々勉強。カッコよいことを言いたいわけではなくて心底そう思う。就労支援しながら、彼らに毎日新しい気づきを与えてもらい、いろいろ勉強させてもらってる。

うちの障害者さんたちの幸せとは何かしらを考えるのは、たかだか就労支援担当でしかない私にはあまりにもおこがましいことなのだが、もしうちの職場から別なところへ巣立ってゆく時が訪れるのなら、できる限り彼らを最良のかたちで送り出したいと思う今日このごろ。

たましいの尻尾が来なかった家

前回の続きというか、そもそも最初書こうとしていた方の話。

そういうわけで、たましいの尻尾が来なかった家、というか、尻尾がちぎれたままのたましいで高校時代を過ごした家について、これから先どうするつもりなの、と親戚から聞かれるような年齢、状況になってしまったのだ。つまりひとりっ子の私は三十余年東京に住みいまだ独り身、結婚のあてはなく、祖母はとうに他界し父はおととし鬼籍の人となり、母は認知症で長期入院おそらく実家に戻る見込みはない。

震災のあたり、私は、もし両親が死んでしまったらひとりぼっちになり行くあてがなくなるなあ、としきりに考えていた。今にして思えばそれはフシギな話で、東京に来てからというもの震災前までは実家に帰ったことなど数えるほどだったし、ましてや親戚づきあいなんてしたこともなかったし、そもそも人間はどんなに親しい人と暮らしていてもしょせんはひとり、どこにどういう形で住もうがそれは生きている間の仮住まいで、社会とかかわりを持って生きていく、つまり出撃するための前線基地なのだ、という程度に思っていたので、ほんらい実家なんてどうでもよいはずのものだったのだ。ましてや今はネットもあり、人との繋がり方は多様なものだ。

だがひとりぼっちになどならなかった。というか、ひとりぼっちにはさせてもらえなかった。長い間どこでどうしていたのかも知らないはずの私を、なんだか知らないが親戚は妙にやさしく迎えてくれる。何度も東京と郷里を往復するうち、郷里に知り合いはできる。実家でお盆をすれば隣近所の人たちと挨拶だの昔話だのすることになる。それは世間というものが私を絡め取ろうとするための罠なのだとは思うが、その蜘蛛の巣のような罠に身を委ねることは、それはそれで思いの外に心地よい。

土地にはその土地それぞれに記憶が堆積していると、私は妙に信じていて、私の実家の土地にもやはり記憶が積もっていて、そこには私の祖母や両親だったり、私が生まれるずっとずっと前に若くして亡くなった祖父だったり、そういう人たちの記憶が眠っている。そういう土地の上に、少なくとも私が生きている間に私の全く知らない誰かの記憶を重ねるのは、なんだかちょっと忍びない。たましいの尻尾を失ったままでそれもほんの3年間しか暮らさなかった家に、私は愛着など感じてはいないとか、私がどこに住もうといつも此処ではない何処かを希求するだろうということとは全く別な話として、私は実家のある土地を手離したくない。

まあそんなことを言ったところで、この先どうなるかはわからない。わからないし、なるようにしかならないのだろうが、でも何がどうなろうとこの先私の実家を巡って起きる現実は、意外と、今の私が意識しない部分で望んでいることに結局かなり近いんじゃないかという気もして、そういうところが私はけっこう楽天的だ。

たましいの尻尾の入った箱

私の今の実家は私が高校受験の頃に建て替えたものだが、それまで住んでいた土地に建て替えるので工事中の仮住まいが必要だった。

仮住まいに借りた家の、1階はもとは何かの店だったんだろうと思うようながらんとした広いスペースで、そこが我が家の家具だのとりあえず使わないものを保管する場所、狭い階段を上がったところにある台所付きの二間が両親と祖母、私が身を置く場所だった。私が高校入試のための勉強をするには手狭だと、一時期、私だけ母の実家に下宿のように住んでいたこともある。

仮住まいの家に越すため、古い家で荷物の整理をした。要るもの、これを機会に処分してしまうもの。母が「これ、もう要らないでしょ?」と言って私の前に置いたのは、1コのダンボール箱。ダンボール箱に母が水色の模造紙を貼ったもので、中には私の幼稚園の頃のいろいろなものが入っていた。いろいろと言ったってダンボール箱ひとつなのだから、たかが知れている。何が入っていたのかはよくわからないが、おそらくキンダーブックとか。

私は、引っ越すのに荷物をまとめなければいけないというちょっと切羽詰まった状況に気圧されたせいもあって、ついうっかり「うん」と言ってしまった。

幼稚園の頃のものだし、何が入っていたのかもよくわからないのだからどうでもいいようなものだが、そのダンボール箱を捨ててしまったことを、私はなぜか今でも後悔している。私のたましいの尻尾を、無理矢理に無造作に、それも他でもない母によってちぎって捨てられたみたいな、今でも思い出すとこころの痛みで涙が出そうになるくらい、何故だかわからないが、ほとんど後悔なんてしない私の最大にして、たぶん唯一の後悔。

優等生で聞き分けの良かった私が壊れ始めた瞬間。母子関係が壊れた瞬間。おおげさでなく、そんな気がする。しかも、母だけの責任なのではなく私がそれに同意しているのだから、私の後悔。

あの箱には何が入っていたんだろう。たぶん私のたましいの尻尾。捨てられ焼かれた、私のたましいの尻尾。きっと私は今でも、その失ったたましいの尻尾を修復しようとしている。