少しハニカム構造体

ふみのつれづれ

残像

本当ならばリアス式海岸の入江のおだやかな海を眺めることができたはずのその海沿いの国道は、津波のあと築かれた堤防のせいで景色が台無しになり、きっとそのせいもあって私の言葉数は多い。もし海が見えたら、助手席の私はたとえ今日が小雨まじりの天気だということを割り引いても、車窓を流れる風景に目をやりながらぼんやりするということもできたはずだ。叔母の運転する軽自動車の中、私の近況報告が済むと話はいつの間にか父のことになる。今年のお盆が過ぎた、もうその夜に東京に戻るという日のお昼どきのことだ。前日に叔母が私に美味しい海鮮をごちそうしてくれると言い出し、それもわざわざクルマで30分ぐらいかかるとなり町の店まで行くという。運転しながら、アンタのお父さんは変わった人だったね、と叔母は言い、続けて、亡くなるのが早すぎたね、と言った。私は、うーん、と言葉にならない声を漏らす。入り江をはさんで対岸の方の標高400メートルばかりの山は霧なのか雲なのかすっぽり覆われて、まあそれはそれで良い眺めだなあとその時初めて思う。

人間、その内面というものは誰でも非常に複雑なもので、よい人、なんていう言い方は大変失礼なんじゃないかと思う。それは結局、その人を知らない、その人とその程度にしか関わっていない、その人が本当はどうかは度外視して単にそこに話を帰結させたい、ということを白状しているようなもので、うちの父が亡くなった時に集まった従姉妹たちが口にしたその言葉を、なんだか空々しい気持ちで苛立ちながら聞いていた。

82歳で亡くなったことを普通はけして早すぎたとは言わないのだろうが、父の亡くなり方は叔母の言うとおりだった。脳梗塞で倒れて2週間、父の容体は安定していて、亡くなる前日、医師からそろそろ退院という話とその後のリハビリについての説明があった矢先だった。詳しくは書かないが、まあ、病院のベッドの上の父に不幸な出来事が重なったのが原因という具合で、叔母は叔母なりに、父の死をいまひとつ受け止めきれていないということなんだろう。

父が変わった人であったのは事実で、そういう父が私は子どもの頃は大嫌いで恥ずかしくもあった。でも今にして思えば父はサラリーマンとしてひとつの会社を定年まで勤め上げたし、その稼ぎで小さいながら家も建てたのだから、母という有能な舵取り役、口うるさい足枷があったからこそおそらくできたことだということを付け加えても、小市民的な意味で父は社会人として立派だったわけだ。

このブログの第一の目的は、父のことを書くこと、父の死に決着をつけることだ。三回忌を過ぎてやっと、変わった人であった父を紐解く鍵を見つけたような気がしていて今ならそれができそうだという思いがある。肉体の中のたましい、着ぐるみの中の父の実体のとでも言うべき何か。その実像ではなく残像。

私がやっといてあげるから無理して帰って来なくていいよ、お金だって大変でしょう、と、叔母は言った。8月13日に亡くなった父の三回忌を7月にやり8月はお盆、そして9月はお彼岸の墓参り、仕事のやりくりも金銭も大変なのは百も承知だが、やはり無理をしてでも帰りたいと私は思う。今度の帰郷で決着をつけるなんてことはできないだろうが、決着に少し近づいた分だけちょっと違う気持ちで墓参りができそうだ。