少しハニカム構造体

ふみのつれづれ

傷だらけのローラの人生はいろいろ

お盆に帰郷したとき、従妹と従妹と私の共通の友人、私にとっては初対面の子、という女性ばかり4人で飲んでいて2軒めにカラオケスナックに行く。従妹ともカラオケが初めてなら他の2人とも初めて。別に好きな歌を歌えばいいのだが妙なウケ狙いの気持ちにかられて「ひとり銀恋」をやろうと思い立つ。「銀座の恋の物語」の男性パートと女性パートをひとりて歌うという、まあそれだけのことなのだが。

その銀恋、私が歌おうとしたら、初対面の子が一緒に歌うと言い出し、私が男声、つまり石原裕次郎のパート、その子が女声のパートを歌う。テーブル席で私のとなりに座っていたその子はすでにかなり出来上がっていて、一緒に歌ってからというもの抱きついてきたり、そういう酔い方というだけならキュートでかわいいし素でかわいい乱れ方ができるのはうらやましいとさえ思うのだけど、抱きつかれた私はちょっとイヤだった。

あとで共通の友人が私に言うには、その初対面の子のそういう酔った時の態度は、同性に気を許している証拠で、石原裕次郎のパートをそのまんまのキーで歌ってる私をオンナだと信じて疑っていないということらしい。

私のような人間がオトコが好きかオンナが好きか、というのは自分にとってもおそらく周囲の他人にとっても微妙な問題で、まあそんな話を他人とする機会があるのはほとんど女性となのだけれど、そのうち他人にとってもという場合はつまり、現在戸籍上も周囲の認知の上でもオンナである私がもしもオンナが好きということならば、性欲の矛先が自分に向いてくる可能性だってあるじゃないか、という、非常に現実的な不安ということなんだろうし、それはまあもっともな話だなあと思う。

で、オトコが好きかオンナが好きか、と問われると、正直言うと言葉に窮する。なにしろ元がオトコ、男性の身体が嫌で性転換したくらいなので、男性の身体にもオトコらしさというのか男性性のようなものにも、期待も幻想も、それを欲する欲求みたいなものもあまり抱いていないし時として嫌悪感すら抱いている、というのが正直なところなんだと思う(じゃあ、どうして性転換して性別変更までしたかと問われれば、それは男性と結婚したいとかいう目的のためではない、ということで、そもそも誰にしたってそのへんについて合目的的に性別を与えられて生まれてくるわけではないのだし)。

じゃあオンナが好きかというと、それもよくわからない。女性といると、自分が男性の役割をしなきゃいけないんじゃないかという強迫観念みないなものにかられてなんとも居心地が悪いということが、往々にしてある。

従妹と一緒にいてからがそうだ。郷里に住む従妹が東京に来て、夜、一緒にごはんを食べ、そのあと隅田川べりを夜風にふかれながらすこし散歩する。そんな時、彼女をエスコートしなきゃ、と思う。夜だしもし何かあったら彼女を守らなきゃ、と思いピリピリする。一方で、そんなことを考えている私ってオトコなのかオンナなのか、いったい何なんだ、と思っている。ちょっとオーバーに言うと束の間、私のアイデンティティが混乱して危機に陥る。何で私がエスコートしなきゃいけないのだ、むしろ私がエスコートされたい、誰かエスコートしてくれ、と。ただまあ、郷里で従妹にお盆の買い出しに行った時ちょっと口論してその時の私の言い草はおそらくかなり男性的なのだが、私のアイデンティティは混乱することはなかったので、私がまだ自覚していないだけで何か危機に陥るツボのようなものがあるんだろう。

まあ話を端折るけれど、オトコが好きかオンナが好きか、という話はつまるところ「寝・る・こ・と・が・で・き・る・か」なのだろうが、それはまあ、ブログに書いて公表するような話ではない。救いは、相手がオトコであれオンナであれ、私が一緒にいて居心地のよい他人というものが地球上に存在していてしかもその人は案外近くにいながらまだ巡り会えていないたけで、でもいつかはその人と会えるのだと思っていること、なのかも。いいトシして少女趣味だと言われても。

カラオケの話に戻る。私にはもうひとつ、たまにウケ狙いで歌う西城秀樹の「傷だらけのローラ」があるのだが、こっちを歌えば良かったなあ、とちょっと後悔する。ま、私が思うほど、私がその歌を歌うことに注ぐ熱量ほどにはウケたことがないのだけど。